インタビュー・対談シリーズ『私の哲学』
私の哲学Presents
第66回 伊藤 操 氏

がんという病気に向き合うとき、人は自由で、幸せでいられるのだろうか。夢を描き続けることができるのだろうか。夢追人が集まる街ニューヨークで書き続ける、伊藤 操氏が見せてくれた、プライスレスな生き方とは。

Profile

66回 伊藤 操(いとう みさお)

ライター | アートプロデューサー
アメリカ・ニューヨーク在住。明治大学文学部卒業。サン・デザイン研究所スタイリスト科卒業。1982年、夫とともに渡米。1985年から2000年まで繊研新聞社のニューヨーク通信員として活躍しながら、日本のメディアにニューヨークのファッション、アート、ライフスタイルなどについての記事を寄稿。
2001年に帰国して日本版『Harper's BAZAAR』の編集長に就任。その後、乳がんが発覚し、辞任後再びニューヨークへ移住。ピンクリボンキャンペーンの啓蒙に力を入れ、ファッションの視点から多くの記事を執筆している。著書に『ティナの贈りもの』(ティビーエスブリタニカ刊)、『私をみつけて』(インターナショナル・ラグジュアリー・メディア刊)『ダナ・キャランを創った男、滝富夫』(扶桑社刊)『あなたを待ちながら』(クリーク・アンド・リバー社刊)他。ニューヨークのアートやビューティを日本に紹介するプロジェクトを手がける。アルガンオイルのスキンケア・食品ブランドのSULA NYC本国のアドバイザー。
※肩書などは、インタビュー実施当時(2017年9月)のものです。

コミュート婚で輝いて生きる

初めてニューヨークの地に降り立ったのは1982年です。夫もジャーナリストで、二人してニューヨークに行ってみたいという思いがありました。夫がフルブライト奨学金を受けてニューヨーク大学・大学院テレコミニュケーション学科で客員研究員としてインターラクティブ・コミュニケーションを学べる機会を得たことで一緒に渡米。私は、1年間仕事をせずに、英語の勉強と人脈づくりをしていました。1年経って夫が帰国することになったのですが、私にはまだやりたいことがあったので残ることにしたんです。別居婚というか、コミュート婚。離婚は考えませんでした。その時お互いが輝いていられる場所が違うだけだったので。今は日本でも別居婚を選ぶ人たちが増えましたが、大切なのは、お互いが輝いていられること。パートナーや幸せの形は千差万別なのだと思います。 夫は帰国後、独立してメディア関係の会社を立ち上げたこともあって、その手伝いをしながら、繊研新聞というファッション業界誌の駐在員になりました。他の媒体での仕事も許されていたので、『マリ・クレール』や『エスクワイア』、『フィガロ・ジャポン』などでもニューヨークの記事を書くようになりました。夫と私は仕事のパートナーとしても相性が良かったのだと思います。

ファッションと乳がんの関係

ニューヨークのファッション業界は、乳がんに対するキャンペーンにとても力を入れています。乳がんの手術を受けると、全身のバランスが崩れる、下着を替えなくてはならない、胸元が開いた服は着られないなど、ファッションに直接影響を及ぼすもの。だからこそ、ファッションリーダーやブランドのオーナーたちは、女性が輝いて生きるためのピンクリボン活動を率先してやってきたんです。私が乳がん患者の取材をしたり、ピンクリボン活動について取材したりするのはごく自然なことでした。 私自身、結婚後すぐに甲状腺のがんが発覚し、手術後からずっと今でも薬を飲んでいます。甲状腺のがんは、がんとしては軽いほうで薬さえ飲んでいれば死ぬことはありません。また、母が乳がんを患っていたこともあって、自然とがんについての取材に関心が向きました。2001年、日本のファッション雑誌の編集長に抜擢していただき、帰国。日本にピンクリボン活動が広まれば良いと様々な取材を重ね、記事を掲載してきましたが、まさか自分が乳がんを患うとは思ってもみませんでしたね。病気が発覚して、編集長をやめることを決断。でも、ただ養生するだけという生活はできず、やはりニューヨークが恋しくなって、また渡米しました。

死を考えるのではなく、どう生きるか

数十年以上、ニューヨークで様々な女性たちに出会い、取材しましたが、とても印象的な女性がいます。エイズ患者のティナ・チャウです。エイズは治らないので、がん以上に深刻な病気ですが、彼女は「私は自分がベストエイズ患者になる」と宣言していました。自分のことを世の中に伝えるだけでなく、エイズで苦しむ女性患者のサポートをしていたんです。自分が世界で一番不幸だと思ってしまっても仕方がない状況の中で、彼女はいつも笑顔で軽やかに生きているように見えました。だから、自分ががんになったとき彼女のことを思い出して、「じゃあ、私はベスト乳がん患者になろう」、「自分には何ができるんだろう」と考えるようになりました。 もちろん、その陰には事前知識と、早期発見、早期治療があります。甲状腺のがんは取りきれずに一生付き合っていく必要があります。私の場合は乳がんを早期発見できて、手術は成功し予後も良かったので、ポジティブでいることができました。すべての女性たちには、検診と早期発見を心がけてほしいですね。 「東京タワーがいつかピンクに染まればいい」。日本の雑誌に書いた、ピンクリボン活動の記事。今や毎年恒例の行事となり、10月は、東京都内のいろいろな場所がピンクに染まります。「願いが叶った」という単純なものではなく、ニューヨークと東京、私がファッションと病気を通じて行き来した街で起きた一つの奇跡であり、同じ病気で悩む女性たちの希望の光になることを祈っています。

Being in Peace

私が日々大切にしていることの一つに“メディテーション”があります。“瞑想”ですが、これを毎日しています。人間は、一分一秒、常に考えている生き物。だから、1日の中でほんの20分間心を無にすることで、脳や心臓を休めることができる。瞑想すると血圧が下がるんですよ。そして、本当に引き寄せが起きる。きっと、感度が高くなるからすべてのものにチューニングが合うようになるんだと思います。 私は、プライスレスという言葉が好きです。もちろん、ビジネスの世界では、お金をいただくし、お金にならなければビジネスではないのですが、「お金が支払われないからここまでしかやらない」というのは違うと思います。例えば、ギャラが1,000ドルの仕事をして1,000ドルいただくことはできるけれど、1,000ドルの仕事をしながらもそれ以上のものを得ることだってできる。それは、自分の気持ち次第です。あなたの目の前にあるドアの向こうには、世界が広がっています。だからこそ、“Knock the door”すること。相手が有名人だろうと、憧れの人であろうと、まず、ドアを叩いてみてほしいと思います。 私がこれまで生きてきた中で感じたことを、最新作の「NY失恋MAP」という短編集に書きました。その中の1篇「Being in Peace」という物語では瞑想について書きました。私にとって書くという作業はプライスレスで、人生の大きなチャレンジでもあります。ニューヨークドリームという言葉がありますが、私の夢は書き続けること。結婚にも、病気にも縛られず、ニューヨークという自由な街でこれからも生きていきたいですね。
杉山さんと東京で初めてお会いした時、ニューヨークつながりで、話が盛り上がりました。 そして彼の行動と頭の回転の速さに驚きました。翌日には彼の本を送ってくれて、私の本も3冊買ってくださり、翌週のミーティングまでに3冊とも読んでいたのです。そして今回、ニューヨークで再会し、そのエネルギーに改めて脱帽です。でもあまりにも行動が早いので、脳と心臓に負担がかかるので、なにも考えない時間を作るために瞑想をしたらいいとアドバイスをしましたら、すぐに瞑想を始めて、その効果をもう実感しているようです。 若くてパワフルな杉山さんに刺激されて、私の好きなニューヨークと東京を舞台にした次の作品執筆やアートやビューティのプロジェクトへの意欲がさらに出てきました。 瞑想を深めることで、潜在意識がますます活性化されて、さらに遠くへいけると思います。杉山さんの次なるプロジェクトに期待しています。

ライター、アートプロデューサー 伊藤操


「そのままでは体が疲れきってしまうわよ。脳も心臓も休めてあげないと」と、伊藤操さんにアドバイスいただきました。常に脳がフル回転、行動もフル回転の僕を心配してくださり、生活の中に“瞑想”を取り入れるようにしました。そうしたら、「!」。引き寄せの力がますますパワーアップしました。また、外に向けていたエネルギーを内側に溜め込むようになったことで、新しい自分を発見することができました。伊藤さんと一緒に『私の哲学』のニューヨーク企画を立て、コーディネートをお願いし、セントラルパークでのインタビューが実現しました。今回、自分が育った大好きな街、ニューヨークで実施できたことを機に舞台を世界に広げ、たくさんの素敵な方々とお会いし、『私の哲学』を発信していこうと思います。

『私の哲学』編集長 DK スギヤマ

2017年9月 セントラルパーク・ニューヨークマンハッタンにて   ライター:MARU 撮影:Sebastian Taguchi