インタビュー・対談シリーズ『私の哲学』
私の哲学Presents
第96回 山口 哲史 氏

三代目として菓子屋を継ぎ、10年間苦難の道を歩んだ山口哲史氏。廃業せざるを得なくなるが、天職と言える保育園運営で人生を大きく花開かせた氏に、経験から得たもの、今後の夢を語っていただきました。

Profile

96回 山口 哲史(やまぐち さとし)

社会福祉法人ちとせ交友会 理事長
1964年岡山県生まれ。立教大学卒業。老舗菓子屋の長男として生まれる。大学卒業後、百貨店松屋に就職。30歳のとき家業を継ぐが、さまざまな問題から経営は悪化。元来の子ども好きから、初代が設立した財団法人の企業内託児所の経営に携わるようになり、50年以上続いた菓子屋を廃業し、福祉業界での事業展開にシフトする。現在は地元岡山をはじめ、東京、神奈川、千葉、埼玉、愛知、大阪、福岡で認可保育園等を運営している。

菓子屋の三代目

私は、岡山を中心に、東京や福岡などで47の認可保育園、認定こども園、障がい児施設を運営しています(2019年9月現在)。しかし、ここに至るまでは苦難の連続でした。 実家は菓子屋で、戦後、伯父が始め、高度成長期の波に乗ってビルメンテナンスや遊技場、飲食業、観光業にまで多角化した事業は大成功し、社員700人規模の企業に成長しました。父は、伯父を次男とする6人兄弟の5番目で、子どもがいなかった伯父と養子縁組をして後を継ぎます。私はそんな父のもとに、姉2人に続く待望の長男として生まれました。友だちと市内の繁華街を歩きながら、「あの店はうちのだ。この店も僕のだ」と、自分を中心に世界が回っていると思っていた鼻持ちならない子どもでした。

試練の始まり

カリスマ経営者の伯父を慕っていた社員や他の兄弟たちも、突然亡くなった伯父の後を継ぎ、経営者として素人だった父にはついていきませんでした。折しもバブル経済が崩壊、事業は徐々に縮小し、「あなたが継ぐ頃には会社はないかもしれないよ」と、母が言っていたほどです。父は苦労しながら事業を縮小し、何とか菓子屋を残して私に引き継げる形にしました。その頃、東京の百貨店松屋に勤めていた私は、40歳くらいで実家に戻り、三代目として菓子屋を大きくしていこうと考えていました。しかし、父が大病を患い、29歳のとき急遽岡山に帰ることになりました。 帰ってみると、以前は10億以上あった菓子の売り上げは5億に減り、借入金は6億近くあって、まさに火の車。他の和菓子屋の下請けや、貸しビル業で何とかバランスを取っている状態でした。必死だった私は、父の現場主義を否定し、数字管理による合理的な経営を推し進めます。職人の苦労や気持ちを理解することなくとことん経費を削り、会社の命である人員の整理まで行ってしまい、社員の士気も利益も下がっていく一方でした。そんな中、岡山のブランド牛乳、蒜山ジャージー牛乳を使った洋菓子を始めたところ、人気が出て4店舗にまで広げます。しかし、製造過程でのロスが大きく、豆菓子と和菓子部門をカバーするほどにはなりませんでした。

心が足らなかった経営

会社を継いでから、プライベートでも災難が重なりました。入社して1年後に父が亡くなり、数億もの相続税が発生します。自己破産するしかないと思いましたが、以前、子会社を整理したときに発生した貸付金と相殺できないかという社の番頭の提案を受け、税理士とも相談して税務署に嘆願書を提出、有り難いことに受理されました。その後は、実家の全焼、母の死と次々に災難が襲い、嵐の中じっと耐えているような状態が10年弱続いたのです。 会社はますます追い詰められ、広い工場の土地の半分を住宅メーカーに売って一部借金を返済し、残りの半分に新しい工場を建て、利益率の良い豆菓子と洋菓子でやっていこうという戦略を立てたものの計算通りに上手くはいきません。資金繰りはさらに悪化し、ついに廃業への道を進むことになりました。ツテを頼って洋菓子用に建てた工場を貸し、2億5千万の借金は5千万で回収され、社員とリースの機械は広島のライバル会社に引き取ってもらうという自前のM&Aを行いました。 何とか会社を整理することができましたが、私が社員に寄り添うことをせず、心の足らない経営をしてしまったばかりに、50余年続いた会社を畳むことになり、社員に対する申し訳ない気持ちは今でも残っています。愛情を持って菓子作りに励んでくれていた職人や、次の仕事を決められなかった社員たちには、一人一人に土下座をして退職してもらいました。しかし、自己破産することなく廃業し、別の形で会社を存続できたのは、父の時代から残ってくれた番頭さんのおかげだと心より感謝しています。

企業内託児所

営業先のスーパーにギリギリまで利益を削って出した見積書も、紙飛行機にして飛ばされるような毎日。伯父が設立した企業内託児所(認可保育園)の理事長職を引き継いでいた私は、入園式や運動会などの行事に出席するたびに、園児たちの笑顔に癒やされていました。自分は子どもが大好きなんだと実感した私は、保育士の資格を持っている妻に手伝ってもらい、運営に関わることにしました。当時の園長が行っていた、子どもたちを上から指導する保育ではなく、自律性を育てる、子どもたちの考えを尊重する保育に変えたかったんです。 理想の保育園づくりと園長との間に挟まれ、妻には長い間大変な苦労をかけました。また、園長の退職に伴い、ほとんどの保育士、職員が辞めていく中、数人の有志が私たちの思いに共感し、苦労を厭わず残ることを決心してくれました。厳しい時期を支えてくれた彼女たちと妻には、感謝しかありません。

園児たちの第二の我が家に

平成9年に財団法人から社会福祉法人に変え、制度改革によって一時保育などさまざまな子育て支援ができるようになり、それら全てを取り入れたところ、地元で評判の保育園になりました。そして私は、本格的に保育園の運営に取り組むことを決めます。岡山県内に4年に1園ずつつくり、3つ目ができたとき、保育園の理念をつくることにしました。初めは消極的だった先生たちも、「目指す方向を一つにしておかないとバラバラになってしまう。迷ったときに道しるべとなる道が必要なんだ」と、私の保育に対する考え方などを話したところ、月に一度のミーティングに率先して考えをまとめてくるようになりました。 1年ほど経った頃、話し合いの中から「Home」というワードが自然と出てきて、思わず全員涙しました。私もうれしかった。先生たち自ら生み出した、仲間や園児たちへの思いが詰まった理念です。みんなで一から築き上げたこの理念は、これからもずっと引き継いでいきます。

自分を高め、仲間も高める

今後は、一つひとつの保育園の質を高め、数と質が日本一の保育園にしたいと思っています。子どもたちにとって安心で、過ごしやすい「Home」となることはもちろん、職員が働きやすい保育園づくりを目指しています。また、小児科や薬局を併設させた施設創りの構想もあります。そこにはスーパーや惣菜屋があってもいいかもしれません。保育も医療も買い物もワンストップでできたら、家での親子の会話を楽しむ時間も増えるでしょう。これをそれぞれ得意とする会社が集まって、チームでつくっていきたいですね。30代にどん底のような年月を経験したので、失敗してもまた立ち上がって、いつか成功すればいいと思っています。 両親は事業を成功させることができないまま、早くに亡くなりました。そのためか、親戚や周りの方々は2人のことをあまり良く言いません。でも、私には愛情をたっぷり注いで育ててくれ、早く亡くなったことで良い意味で試練を与えてくれました。そのことに恩返しをし、私が最期を迎えるときに「よくがんばった!」と認めてもらえるようにしたい、それが行動指針になっています。常に周囲の人々や祖先に感謝し、私の人間性を高めることができれば、両親の評価も上がるでしょう。そして、仲間も一緒に高まり、倫理経営の実践を通して、関わる全ての人が歳を重ねるごとに幸せになっていくことが私の目標です。
ここ数年で急激に私共の法人が大きくなり、職員とその家族、入園、入職を検討されている方々に法人のトップとして、どのような思いで経営をしているか!どのような経歴で、個人の理念はどのようなものなのか!ということを、文字にしてきちんと伝えていかなければという気持ちが強くなりました。そのようなときに、友人の紹介で杉山大輔氏に出会い、彼の圧倒的なパワーと、思わずこちらが何でも話してしまう聞き手としての知性に惹かれ、私の想いを結集したものをつくっていただくことにしました。 杉山氏にいろいろな角度から質問をしていただいたことで、私の奥底にある本音やこれまでの人生を話すことができました。彼と彼のチームとの出会いは、私に刺激を与え、今後の法人の行き先や私の哲学の上長を喚起させてくれました。本当にありがとうございました。皆様の益々のご活躍とご健勝を心より祈念いたします。感謝!!

社会福祉法人ちとせ交友会理事長 山口 哲史


山口哲史さんのインタビューは、ドラマを観ているかのような感覚になるほど、様々な逆境や嬉しい出来事があり、「人生は山あり谷あり」というのはこのようなことだと実感しました。山口さんは逆境がある度にパワーアップし、「できる方法」を常に考えている経営者です。「何か起きたときの打つ手は無限」というお話に、本当に苦しい状況に置かれたときは、できる限りのことを全力でやる必要があると再確認しました。何もせずにじっとしていても、何の解決になりません。山口さんの体験談を伺い、動くことによって道は切り開けるのだ、と勉強になりました。 子ども達の成長を支える保育園づくりで、日本一の保育園を目指してください。応援しています!

『私の哲学』編集長 DKスギヤマ

2019年7月 アルジェントASAMI – ひらまつレストランにて ライター:楠田尚美 撮影:稲垣茜