インタビュー・対談シリーズ『私の哲学』
私の哲学Presents
第93回 千住 博 氏

今年(2019年)で「画業40周年」を迎える日本画家、千住博氏。これまで制作した作品は「1万枚」以上。それでもまだ、「最高傑作は描けていない」と自分を律し、過去に満足せず、精力的に創作活動を続けています。40年間、変わらない絵画への情熱。その源泉はどこにあるのでしょうか。

Profile

93回 千住 博(せんじゅ ひろし)

日本画家 | 京都造形芸術大学大学院教授
1958年東京生まれ。東京芸術大学美術学部絵画科卒業。同大学院博士課程満期退学。これまでにヴェネチア・ビエンナーレに2回出品(1995年絵画作品としては東洋人として史上初めて名誉賞受賞)、光州ビエンナーレ、成都ビエンナーレ、ミラノサローネなどに出品。
2016年薬師寺の「平成の至宝」に選出、「平成28年度外務大臣表彰」を受賞。2017年「第4回イサム・ノグチ賞」を受賞。2018年「日米特別功労賞(JCCI)」を受賞。
作品はメトロポリタン美術館をはじめ世界主要美術館に収蔵、展示されるなど、国際的な評価も高い。
千住博 公式ウェブサイト

「ダメな自分」に立ち向かう

40年間、どの時期も、夢中で絵と向き合ってきました。それでも今、過去の作品を見直してみると、「つたないな」と思うことばかりです。私に限らず、芸術家であれば、誰もが思うことではないでしょうか。たとえば、アメリカ人建築家、フランク・ロイド・ライトも、「あなたの最高傑作はどれですか」と問われたとき、「次の一作です」と答えていました。 私も、彼の気持ちがわかります。その時その時、精一杯取り組んだ自覚があるので、あとから加筆しようとは思いませんが、描いてきたどの作品を見ても、「描き足りなかったのでは……」という悔いがあります。 しかし一方で、「つたない」という思いを残すことも、自分にとって大切なことだと感じています。なぜなら、「つたない作品を残してしまった」という悔いが、次の作品への起爆剤になるからです。過去の作品に対して、「我ながら良くやった」と満足したら、それ以上の作品は生まれない。「今の自分を超えていこう」とは思わなくなってしまいます。 毎回、完璧を目指して取り組むものの、完成した作品を見ると、「何だこれは」と思うのが毎度のことです。 ダメな自分に打ちのめされ、それに耐えながら新しい作品をつくり、またダメな自分を見せつけられ、さらに耐える……。その繰り返しを40年間、積み重ねてきました。「あれもダメ、これもダメ、じゃあ、どうすればいいか」を考え、次につなげる。その繰り返しが人生なのだと思います。

根性を支えるのは「体力」

いわゆる「巨匠」と呼ばれる方々がどうして偉大なのかといえば、どれほど「ダメな自分」を見せつけられても、翌日には立ち直って作品づくりに立ち向かう「根性」を持っているからです。彼らは私以上に、60年も、70年もネバーギブアップで立ち直ってきた。この見上げた根性こそが人間として尊敬に値するわけです。では、この根性を支えているものは何だと思いますか? それは体力です。 私もダメな自分に打ちのめされたら、家に帰って、すぐに布団をかぶって寝てしまいます。寝ると体力が回復して、「もう1回、またもう1回」と作品に向き合う気力が湧いてきます。 私には、「絵」しかありません。私は、「絵を描くこと」以外、何もできません。勉強だって、語学だって、料理だって、私より上手な人はたくさんいます。私より文章が上手な人も、頭がいい人も、優れている人も、スタイリッシュな人も、たくさんいます。絵がなかったら、私は社会的な存在感を見出せなかったかもしれません。絵は、自分を生かしてくれる唯一の道だったのです。だから、腹をくくってやるしかない。 私はこれまで、「1万枚」の絵を描いてきましたが、ただの1枚も完璧だと思ったことはない。打ちひしがれてばかりです。それでも描き続けていられるのは、「絵が好きだから」です。

清らかな作品をつくりたいなら、清らかな人間であれ

絵を見たとき、その絵が何を表現しているのかよくわからなかったら、その絵を描いた人に会ってみればいいと思います。絵には、描き手自身がすべて映し出されるからです。絵には、人柄があらわれます。どんなにいい色を使っていても、濁って見える絵の作者は、会えばだいたいわかります。 「ああ、あの人が描いたのか」と。いい絵を描くために必要なのは、人間形成です。自分がいい人間になる。自分が清らかな人間になる。それ以外に、いい絵を描く方法はありません。 私が若いころ、「千住さんの絵はわからないけど、千住さんを信じよう」と言ってくださったコレクターがいらっしゃいました。その方のおかげで今日の私があります。人に信用されることから、表現は始まります。 芸術家にとって、何よりも必要なのは、人間性です。私の弟子になる条件は、絵が上手に描けることではなく、「誠実さ」や「礼儀正しさ」を持っていることです。誠実さや礼儀正しさが備わっていれば、今はいい絵が描けなくても、やがて実ります。 昔の巨匠たちは、弟子を受け入れたら、まず、庭の掃除と孫のお守りを命じていました。なぜでしょうか。つまらない仕事でもひたむきにやれる人間かどうかを見ていたわけです。 作品づくりにおいて、クリエイティブな作業はほんの一部で、半分以上は単純作業の反復です。絵を描くときは、ひたすら下地塗りを続けます。 作業の多くは、嫌なことばかり、つらいことばかり。絵の具が落ちたり、ひび割れたり、構図がズレたり……、投げ出したくなるようなことの連続です。 私の弟と妹は音楽家ですが、音楽であれば、彼らは同じ練習を小さい頃から1,000回以上繰り返していましたね。 嫌なことでも、つまらないことでも、愚直にやり続けることが、クリエーターにとって、もっとも必要な資質だと思います。

「質」よりも、「量」にこだわる

「作品は質だ」と言う人もいますが、それは絵を描いたことがない人の言葉です。ものをつくる人間は、誰もが「次こそ質の高いものをつくろう」と考えます。しかし、つくろうと思ってつくれるのなら、苦労はいりません。むしろ私は、「質は、量から生まれる」と考えています。質の高い作品は、量を描いている中に、偶然、混じっているものです。 私は、毎回毎回、「これは最高傑作だ」と思って描き上げています。ところが、10点作品が並べば1番から10番まで序列がつきますし、作品のほとんどは、「これでは全くダメ」と思うものです。 しかし、10枚の中から1枚、20枚の中から1点、100枚の中から1枚、「これなら、まあ許せるな」という作品が生まれます。クリエーターは創造的で、独創的で、個性的だと思われていますが、それは一面的な見方です。単純作業や量を積み上げる苦しい過程を、自分を信じて耐えていけるかどうかが求められているのです。

クリエイターには、責任感と覚悟が必要

最近では、デジタルを使った新しいアート作品も数多く見受けられます。デジタルも絵画と同じで、作者の人間性や感性があらわれるものです。 違いがあるとすれば、デジタルは視覚情報と聴覚情報しか伝わらないということです。 匂いが伝わらない。味が伝わらない。温度が伝わらない。質感が伝わらない。そして空間が伝わらないので、不完全なメディアだといえます。 それから、「嫌なものや邪魔なものを消せる」のも、デジタルが持つとても危険な側面です。 ゲームのキャラクターの中に、「嫌いな人」がいたら、クリックひとつで消すことができます。しかし、デジタルのキャラクターとばかり向き合っていると、現実の世界で必要なコミュニケーション力が養われない気がします。 嫌いな人とも付き合わなければならないのが、現実です。苦手な人と、どのように折り合いをつけるかを考え、実践し、体験することで本当のコミュニケーション力が身につきます。 「消す」ことに慣れてしまうと、「気に入らなければ目を背ければいい」という安易な解決法を選びやすい人間になってしまうのでは、と危惧しています。 作品の受け手は、身勝手で多様です。世に送り出されたコンテンツを、それぞれの価値観で解釈します。 だからこそ、送り出す側のクリエーターは、作品が世の中に与える影響を想像して、そして、覚悟と責任をもって何とかして、ここに人間的なコミュニケーションを成立させたい、と願いながら創作する必要がある。デジタルにせよ、絵画にせよ、これからは、今まで以上に送り出す側の人間性が問われる時代だと思います。

準備をしている人だけが、チャンスをつかめる

絵描きにとって「考える」とは、絵を描くことです。絵描きにとって「悩んでいる」とは、「考えているフリをして、休んでいる」、あるいは、「頭が回っていない」ことです。 だから私は、「今は描けそうにない」と思ったときでも、アトリエに行って絵筆を握ります。 腕を組んで悩んでいる暇があったら、描き込みます。心の中に悲しみや苦しさがあるのなら、その気持ちごと塗り重ねていく。そうやって、作品は人間性を持っていくのです。だからその過程も、画家にとっては大切な「考える」という行いです。 絵描きは、絵筆を持ったときに初めて頭が回転して、スイッチオンになる人間です。いつでも、スイッチオンになれるように、私は常に、筆記用具や道具を持つように心がけています。 日頃から絵筆を持ち、準備をしていなければ、チャンスをつかむことはできません。 作品を構成する中心的な要素を「モチーフ」といいます。画家自身に才能や実力があっても、良いモチーフに恵まれなければ、表現者の魅力は存分に発揮されることはないでしょう。それぐらい、画家にとってモチーフは大切なものです。 絵のモチーフが見つかるのは、いつも突然です。アトリエにいるとき、取材旅行をしているとき、ジムでトレーニングしているときなど、いつやって来るのかわからない、いわば「授かりもの」です。 モチーフが湧いて来たとき、手にお菓子やお酒など、余計なものを持っていたら「ちょっと待って!」と準備しているうちにひらめきは逃げてしまいます。常に絵を描ける準備をしておかなければ、チャンスをものにできません。 チャンスは、等しく全員に平等に訪れます。しかし、やって来たチャンスに手を出せる人は、「準備をしている人」だけです。小説家であれば常にペンを持って走らせ、写真家であれば常にカメラを構えている。準備を心がけていれば、運は味方になってくれると思います。

「今、この瞬間」を生き切る

私は月に一度、飛行機に乗る機会があるのですが、万が一にも飛行機が落ちたときのことを考慮して、その都度、身の回りを整理し、「遺作にしたくない作品」をすべて破いています。 アトリエの助手たちにも、「私に何かあったら、作品を破棄するように」と徹底しています。 「破くくらいなら、もったいないので、僕にください」と言い出す助手がいたら、その助手には辞めてもらいます。 私は、誰かの手に渡ったあとでも、「納得がいかない」と思った作品は、自分で買い取ります。そして、「今まで本当にありがとう。君のおかげで私はここまで来ることができた。あとはゆっくり休んでください」と作品に感謝したあとで、破ります。日本画は、破棄しない限り、材質上1000年は残ってしまいます。「ダメな作品」のまま、1000年も人目に触れるとしたら、作品がかわいそうです。 私は、いつ死んでも悔いがありません。なぜなら、毎日、それはもう、夢中でやり切って、やり切って、やり切って、生き切っているからです。「死」がいつ訪れるか、私には想像がつきません。来年死ぬかもしれないし、あと50年生きるかもしれない。想像がつかないことに考えを巡らせるのは、ナンセンスです。だから私は、「次の瞬間死んだとしても、悔いが残らない人生を過ごす」ことを意識しています。今、会いたい人がいれば会いに行くし、今、食べたいものがあったら食べる。やりたいことがあるのなら、先延ばしにしない。やりたいことをするのは「常に、今」です。それが「生きている」ということだと思っています。 日本の芸術の歴史を振り返っても、「今この瞬間」をテーマにしたものが大半です。たとえば、茶の湯の「一期一会」。二度と巡ることのないたった一度の出会い、「今この瞬間」に誠意を尽くすという発想です。また、浮世絵は現実世界の「浮世」の瞬間を捉えていますし、尾形光琳や長谷川等伯を始め、草花や木、鳥など、「今生きている」自然豊かな世界に対する感動が作品から溢れています。常に日本美術の対象は「現世」なのです。生け花もそうですね。今生きている素晴らしさと直面する態度です。死後について考える暇などないくらい、一瞬の生命に対する感動を追いかけていたのでしょう。 今、手がけている作品が私の最後の作品になるかもしれない……。常にその覚悟を決めて描くことが、私が「死」に対してできる唯一のことです。今この瞬間がまさに生で溢れており、その生を100%享受する。死に対して考えを巡らせるよりも、そのほうが魅力的な人生だと、私は思います。
私は長年、とても多くの方からインタビューを受けていますが、杉山大輔さんの印象は、その中で特にシャープな方というものでした。受け答えが明晰にして無駄がない。 昔なら、彼を見て武士道をイメージする人もいたのではないかと思います。武士道とは、「きれいに、迅速に」ということとどこかで読んだことがあります。きれいとは、余計なことにこだわらないこと。どうでもいいものをじゃらじゃら身に着けないこと。迅速にとは、ノロノロしないこと。動くときはスピーディーに、しかしこだわるべき箇所は、慎重に対処することを意味します。そうしないと、戦場で無駄に命を落とすからです。例えば、武士の茶道は、動作がものすごく素早い。しかし道具を扱うときは、本当にギアをファーストに落としたように、慎重に扱います。これは見ていて美しいものです。 この日本人の武士道の美意識を根底に持ち、流暢な英語を話す、礼儀をよく知った国際派の杉山大輔さんの輝く未来を、私は確信しました。

日本画家 千住 博


『私の哲学』を12年継続し、常に行動してきたことで、様々な出会いが重なり、ミラクルが起こり、千住博先生をインタビューする機会に恵まれました。素晴らしい作品の数々に囲まれた空間、「画業40周年 千住博展」開催期間中の日本橋三越会場でオープン前に実施しました。 第90回のインタビューで意気投合した写真家の宮澤正明氏は千住先生と親交があり、今回も素晴らしい撮影をしていただきました。千住博先生のバックに映る、滝の作品はかなりのインパクトがありました。 今年40歳になる僕が生きている間、ずっと絵を描き続けて来た千住先生の夢中になり、継続することの重要性、そして毎日を生き切ることの真剣な眼差しに感化されました。今度はニューヨークの千住博先生のアトリエでいろいろと語り合いたいです。

『私の哲学』編集長 DKスギヤマ

2019年2月 日本橋三越本店|画業40年 千住博展示場内  撮影:宮澤正明

 編集:石崎彩(富女子会ライター部)・藤吉豊(株式会社文道)