インタビュー・対談シリーズ『私の哲学』
私の哲学Presents
第20回 立石 文雄 氏

創業家の一員として、オムロン株式会社の成長とともに歩んでこられた立石文雄氏。現在、会長として忙しい日々を送られている氏に、ご自身のこれまでの歩み、オムロンの社会的存在意義などについて語っていただきました。

Profile

20回 立石 文雄(たていし ふみお)

オムロン株式会社 取締役会長
慶應義塾大学商学部1972年卒業。1975年に立石電機株式会社(現オムロン株式会社)入社。1997年、取締役に就任し、4年間ヨーロッパ現地法人で経営の指揮を執る。1999年、執行役員常務就任。2001年、全社グループ戦略室長就任。2003年、執行役員副社長、及びインダストリアルオートメーションビジネスカンパニー社長に就任。2008年、取締役副会長就任。2013年、取締役会長就任。東北大学大学院 工学研究科 2011年博士課程後期修了 博士号(工学)取得。
※肩書などは、インタビュー実施当時(2013年9月)のものです。

兄姉に鍛えられながらも、自由に育った末っ子

大学3年生の後半、同級生と同じように就職活動をしました。僕は五男二女の末っ子ですし、一番上の兄や二番目、三番目の兄が早くから親父のサポートをしていましたから、そこに加わろうとは思っていなかったんです。親父もしつけは厳しかったですが、進路に関しては何も言いませんでした。大学についても、地元の京都ではない慶應義塾大学への進学を認めてくれました。慶應への進学を決めたのは、ワグネル・ソサィエティー男声合唱団がきっかけなんですよ。避暑で箱根に行ったときのことです。プールサイドで年配の男性4人がきれいなコーラスを奏でていました。あまりにも素晴らしい音色だったので声をかけたところ、慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団のOBの方たちでした。自分も彼らのように歌いたいと強く思い、慶應にというよりも、ワグネルに入りたくて受験しました。

 就職活動の結果、ある会社に内定したのですが、最後の健康診断で肺結核が見つかり、辞退せざるを得なくなりました。そこから3年間療養生活を送ります。親父が西洋医学よりも東洋医学を信頼していたもので、生野菜を積極的に摂る、柿の葉茶を飲む、冷たい水とお湯を交互に浴びる温冷浴といったことを子どもの頃からさせられていました。その健康法の道場に1年半、京都大学の結核研究所に1年、さらに半年ほど自宅で療養しました。結核研究所にいたときは時間がたくさんあったので、宅地建物取引主任者の資格を取るなど人生についていろいろと考えました。この大病で開き直ったというか、世の中があまり怖くなくなりましたね。結局、新卒よりも3年遅れの25歳で立石電機に入社しました。

入社以降は、僕なりに社員と一緒に歩んできたと認識しています。二度目として経営サイドに入ったのは2008年の6月からですが、それまでは執行サイドにいて、いかに社員が幸せに働けて、より活性化する会社になるかという使命を全うする上で、いろいろと葛藤もありました。現在の会長職は、グローバルベースでの企業理念の浸透やCSR推進、および財界活動などの外部に対する代表機能を担っています。ですから対外的な発言には気を遣います。このインタビューも緊張しております(笑)。

求心力としての企業理念

2006年以降オムロンでは、企業理念を太陽に例えて求心力としています。太陽の力が強ければ強いほど遠くまで光が射す。要するに企業理念が隅々にまで浸透するということです。それまでは創業者を求心力にしていましたが、2003年に初めて創業家以外の社長が就任し、さらには社員の3分の2が海外メンバーでほとんどが創業者を知らない世代となり、創業者に求心力を持たせることは難しくなりました。そのため、2006年5月10日の創業記念日に企業理念を新しくしました。国内だけでなくグローバルで浸透させるために、企業理念についてまとめた冊子を25か国語で発行しました。当時副会長だった僕を含めて経営サイドは、企業理念をどのように理解し体現しているかについて対話を現場に出向いて社員と行い、その後もずっと続けています。海外でも現地の幹部を中心に、企業理念に関するディスカッションを「企業理念ダイアログ」という形で毎年行っています。事業の拡大という遠心力だけが高まってしまったら、糸が切れた風船のように組織がどこに行ってしまうかわからない。求心力が強いと社員が皆同じ方向を向き、一つになって進んで行くことができます。

常に企業理念を求心力においているので、経営層から執行サイドの現場まで一気通貫でマネジメントできる体制になっています。リーマンショック後やITバブル崩壊後も経営サイドが現場に行き、今後どうしていくかという議論を重ねたので、社員が会社の状況を理解し、それぞれの立場で頑張ってくれました。ですから、世界的な経済不安の中でもスムーズにU字回復することができました。

オムロンの存在意義

われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう オムロンでは、事業=CSRと考えています。オムロンが進出させていただいている国なり地域なりの社会課題を解決できる会社かどうかによって、オムロンが生きていけるかどうかが決まる。国や地域の社会課題を解決することがソーシャルニーズの創造であり、これができなければオムロンの存在価値はありません。社会課題に対する解決策を示し、そこで生活している人たちを幸せにできるかというところにオムロンの社会的存在意義があるのです。市場の成熟度によって社会課題へのアプローチの仕方は異なるわけで、それぞれの課題に対してオムロンとして何ができるか、企業の社会的責任においてアプローチの仕方を考え、その社会に応じた貢献をしていきたいと考えています。

こうした考え方から、企業理念の中の基本理念を、「企業は社会の公器である」としています。それをわかりやすくした社憲、「われわれの働きで われわれの生活を向上し よりよい社会をつくりましょう」を制定し、プレートにおさめて各部署に置いています。また、名刺に入れて対外的にも宣言しています。これは日本だけでなく海外でも同様です。

 旅は寛容を教える

僕の座右の銘は”一期一会”です。日々の出会い、出来事は生涯に一度しかないと心得るようにしています。それから、”旅は寛容を教える”。要するに旅をせよということです。グローバルに旅をして、異文化に触れて、現地の人の生き方、考え方を学ぶと、それらはのちに寛容性となって自分に戻ってきます。若い人たちには旅をしてほしいと思う。やっぱり旅をするのはいいことですよ。見聞を広め、寛容性を高めることは人間として必要なことです。

また、”Never give up”この言葉も好きです。恥ずかしながら2年前に工学博士の学位を取得しました。これも”Never give up”の一つ、一生勉強ということでしょうか。何度失敗しても諦めないチャレンジ精神。僕はこの気持ちでずっとオムロンの社員としてやってきましたから、学位取得にチャレンジしたのかもしれません。どんなことでも、何とかしようと思ったら何とかなるものです。

大輔さんとの初めての出会いは、約15年前に遡る。彼は大学1年生でした。最近も幾度か会う機会がありました。大輔さんは、会う度に人間としての“器”が大きくなっていかれるのを感じます。例えば私に会うことが決まれば、私の推測ではあるが、私に関する最近の話題を入念に準備をし、知識も入れ込んでおられるように見える。しかし会った当日は、大輔さんが一人で自分を主張しているように思えるが、それが重い空気をつくらず、軽やかな議論へ昇華させていってくれます。
最近の大輔さんをみていると、2013年11月に発生したフィリッピン台風緊急支援に自らマニラに支援物資を携えて出向かれた。身の丈にあった出来る限りの支援や貢献、更に人を幸せにしたいという意識、そしてその行動力もそなわってこられた。私もその生き方に共感を覚えると同時に、エールを送りたい一人でもある。

オムロン株式会社 取締役会長 立石 文雄

 

2007年から始めた「私の哲学」も、ついに20回目を迎えることができました。この記念すべき回に、オムロン株式会社80周年のタイミングで、立石文雄取締役会長とのインタビューが実現できたことを大変嬉しく思います。
立石文雄様は、ひと言でいうと太陽のような存在の方です。心が広く、器がデカイと感じました。大きな愛情で、会社、社員、社会、ご家族を大切にされておられます。インタビューの中には見習いたいお話がたくさんあり、寛容な大人にならなければと決心しました。

「会社が社会の役に立たなければ存在意義がない」。まさにその通りだと思います。個人、会社がどのように役立つか。故 加藤寛慶應義塾大学名誉教授の「公に報いる志」が経営者には必要不可欠です。独立自尊の精神こそ今の日本に必要であり、自分自身を知り、そして人生を切り拓いていく強い心が必要です。

『私の哲学』編集長 DK スギヤマ

2013年9月 オムロン株式会社にて  編集:楠田尚美  撮影:鮎澤大輝